みずがきひろみ
#6・共感するより大切にしたいもの
皆様
人生を楽しんでいる大人をもっと増やしたい!
心理カウンセラーのみずがきひろみです。
今月に入ってのパーソナルセッションでは、リーダーシップやヴィジョンのお話を伺うことが多かったです。
とてもパワフルなセッションが続いています。
多分、このタイミングもある、と思うのです。
今、エネルギーが大きく変化しているのを感じている方もいらっしゃるのではないかしら。
心がワサワサするようでしたら、ご自分のヴィジョンにフォーカスし直すことをオススメします。
この場合のヴィジョンですが、私は、よく「10年先くらいにどんな人でありたい?」と自分に尋ねます。
今なら、「かわいい、ちょっとだけアーティストなおばあちゃん」でしょうか。
〈手順〉
あなたにとって本当に大切なもの(10年後にも欲しいもの)と、そうでもないものを選り分けてください。
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これ、できるだけ「感覚」と「ハラ(魂の叫び)」を使ってね。アタマは、あまり役に立ちません。(10年先なんて、わからんもの。)
そして、本当に大切なものを、ハートのど真ん中に据える、そんなイメージを描いてみてください。
そのハートのど真ん中のものをしっかりと抱き抱えて、日々、一歩(一歩でいい!)前に進む気持ちで、起きる出来事に反応するように心がけます。
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小さなことへのYESもNOも、本当に大切なものをど真ん中に置きながら、ね。
あえて大きな決断をせずとも、自然と要らないものは、はがれ落ちるような流れになると思います。
だからこそ、あなたにとって本当に大切なものを、「これ!」と見定めてくださいね。
共感するより大切なこと
先週、「愛することは、相手の都合に寄り添うこと」と書きました。
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それってあまりオモシロクない、と思われたかしら?
「今だって、十分、寄り添ってるよ」。
そういう方も多いでしょうね。
今、疲労困憊されている方。
おそらく、無理がたたっています。
無理をしているということは、そこに「犠牲」がある、ということ。
「寄り添い疲れたから、いいかげん、寄り添って欲しいわ」。
もしくは、
「もう、面倒くさいから、放っておいて」。
「犠牲」が多くて、燃え尽きてるときって、そう思います。
そんなときの定石は、「犠牲」をやめること、です。
でも、多くの場合、この「犠牲」って、「何かを特別にやってあげている」から、とかではないんです。
そういうわかりやすい「犠牲」なら、やめるべきものがすぐにわかるから、まだいいのです。
そうではなくて、やりたくなければ、「やりたくない」とも言えるし、実際、そんなに「やりたくない」わけでもないのに、なぜだかうんざりするから、自分でも訳がわからないのです。
もし、あなたが、「嫌い」じゃないのに、「やりたくない」し、「会いたくない」し、悶々と腹立たしい、という疲れ方をされているとしたら。
それ、「感情」の犠牲かもしれません。
「こう思わなければいけない」と思っていませんか?
「愛さなければいけない」とか。
「やる気にならなければいけない」とか。
「ありがたいと思わなくちゃ」とか。
「幸せだと思わなければいけない」とか、とか。
感じるように感じていい、です。
思うものは、思う、のですから。
もちろん、感じる感情は選べます。
でも、今のあなたは、「それ」を感じたいみたいです。
ならば、「ムカつきたい」のね、「愛したくない」のね、でいいです。
「愛さくっちゃ」と思うのは、真面目な理想家さんが陥りやすいパターンです、ね。
私もいっぱいやりました。
焦るんですよ、愛せないと。自分を責めますし。
で、つい頑張って、自分にプレッシャーをかけちゃう。
「愛したいなー」、「愛せたら気分いいなー」くらいにしておきましょうか。
大丈夫です。
「愛せる自分になりたい」ならば、そうなりますから。
今は、「愛せない」ことに意味があるのでしょう。
「愛せない」あなたが、まだ十分に、あなたに認めてもらえていないのかもしれません。
〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜
「感情」の犠牲にはもう一つあります。
それは、やたらと周りの人に「共感」してしまうこと、です。
このメルマガの読者の皆さまには、案外、多いのではないかしら。
つい、他人の感情におつきあいしすぎてしまう、のです。
怒りも、悲しみも、罪悪感も、無価値感も、無力感も、、、。
「そうだよね。わかるよ」とエンドレスに共感しちゃう。
繊細な子供は親の感情を取り込む、といいます。
私たちは、みんな、多かれ少なかれ、親の感情を吸い込み、それを自分のものだと思い込んでいます。
どうやら親の気持ちに共感することで、少しでも親を理解したかったみたいです。
いじらしいですよね。
優しい人は、これをずっと続けてしまうんです。
先週、あるセミナーに参加して、「共感疲労」という言葉を学びました。
共感は、慈悲の心(思いやり)の前兆にあるもので、ずっと共感し続けなくてもいい、という主張に、
「まさにそうだ!」と思いました。
他者の感情につきあい続けると、グタッと疲れてしまいます。
これも「犠牲」です。
私は、ジョイニングという、感情を解放して癒しをすすめる心理療法を使うことがありますが、
あるときから、ジョイニングは、必ずしも共感ではないことに気づきました。
共感するのではなく、慈悲の心をもって相手とつながりをもとうとすると、自然に癒しが起こります。
その自然に起こるものを「信頼」して待てばいいのですが、ここで「信頼」できないと、一生懸命に「共感」しようと頑張ってくたびれてしまいます。
日本語には「思いやり」というステキな言葉があります。
相手と同じ感情を感じ続けなくてもいいのです。
相手のことを「思う」ことで、相手の心に橋をかけられれば、もうお互いに「ひとり」ではありません。
「愛することは、相手の都合に寄り添うこと」ですが、
それは、相手と同じことを思うことではなくて、
違いがあることを「思いやる」こと。
わかり合えないことがある悲しみをリスペクトすること。
相手が相手のままでいることを、受け入れること。
自分が自分であることも、受け入れること。
違うことを慈しめるのに、どれだけ愛が必要かしら、ね。
よろしければ、あなたの気づきを
分かち合ってくださいね。
ここからがメインディッシュ↓↓↓
読者さまの声
おはようございます(^ ^)
送っていただいたメルマガで
『「愛する」って、「相手の都合」に寄り添うことだったりするんですよね。』
が、わたしの中にとても響きました。
わたしはずっと、「あれでよかったのかな」「もっとできることがあったはず」と、自分の愛に自信が持てませんでした。
「わたしの愛し方って、ただのエゴだ!」とか、「わたしの愛し方」にこだわっている。だからダメなんだ!と、自分を責めていることに気付きました。
ここに至った理由、流れのお話になります。
先日祖母が亡くなり、どの服を着た姿で送ろうか?という話になったとき、母が「もう決めてあるの」と、祖母が自分で仕立てた服を準備していました。
数年前に祖母のものは断捨離しましたから、そのときに決めていたんだと分かり、母はすごいなぁ。と思いました。
母は、わたしから見ると、相手のことを考えているひと。相手のことをよく見ているから相手の愛して欲しい方法が分かっているひと。だと思っています。
(母との競争が隠れている感じが満載だと書きながら思いました(笑)またの機会に聞いてください(^ ^))
私は、ひとをとても愛したいと思っていることを褒めてみようかな。と、思いました。
そして、相手を見て、感じて、自分の愛し方を手放してみようかな。って思います。
毎回、すてきな気付きをありがとうございます!
お茶会のレポートも楽しみにお待ちしております(*^^*)
(Cさま)
Cさんも、お母さまも、ステキです。
きっとお母さまも、たくさんの葛藤の末に、人を見ること、相手をどう愛したらいいのかがわかるようになられたのでしょうね。
そんなお母さまのあり方が見えているCさんは、すでに、その道にのっていらっしゃるのだと思います。
母親と競争しない娘は、多分、いないんじゃないかしら(笑)。
目の前に、大きな存在がいるのは、ありがたいことですね。
お茶会に興味を持ってくださってありがとうございます。いつか、ご一緒しましょう!
こんなにすぐに、またひろみさんの世界に招待して頂いてとても嬉しいです(#^_^#)
今回のメルマガの「「愛する」って、「相手の都合」に寄り添うことだったりするんですよね」の一文、「なるほど…」と思った後、でもやり過ぎると犠牲になるよね?犠牲と愛のラインはどこなんだろう…とも思いました。
前回の、自分の感覚を大事にするお話と繋がるかは分からないのですが、私は毎朝自分や家族、大切な人たちに簡単なお祈りをしています。
今までは「自分を許せますように」とか「〇〇ちゃんが癒されますように」等とお祈りしていたのですが、段々と、ただ事務的に祈っている感じになっていたんです。
これは違うのかな、じゃあ本当は何を祈りたいのかなって考えたら、湧き上がったのは「愛にあふれた世界を作りたい」でした。(以前、心理学サロンでもシェアさせて頂きました)
「世界が愛であふれますように」と祈っていたら身体がジワ~っと毎回温かくなるので、これが真実だったのかなと感じています。
自分の幸せも祈って、ジワジワ温かい愛のエネルギーが大切な人たちに届くように虹をかけるイメージで祈っていて、寒い朝もジンワリしてます(笑)
ひろみさんにも虹を届けるイメージで祈っています。
毎朝、通勤途中に祈っていますのでひろみさんにも虹の光が届きますように。
書いていて、これはシェアして大丈夫?な少し怪しい文になってしまいましたが(;^_^A
許せますように癒されますようにと言ってる時点で、まだ自分や相手を悪いモノ・弱いモノとして見ていたのかも知れませんが、それよりも愛で繋がれるよう祈るのが私のテーマだったようです。
次回のメルマガも楽しみにしています。
これから寒さも本番ですがご自愛下さいね。
(Tさま)
Tさん、ありがとうございます。
そうなんですよ。「相手の都合」なのですが、そればっかりで自分が置いてきぼりになると、ただの「犠牲」になってしまいます。
「犠牲感」は、無条件にOKって思えないと必ず出てきます。85%くらいの気持ちで相手に合わせているときに、犠牲感マックスに感じるかも。
あまりハートがなくてやっていると、役割だからって、結構割り切れているんじゃないかしら。
愛が85%くらいあると、相手にも自分に合わせて欲しくて期待しちゃうから、犠牲感が強いように思います。
もう「役割でいい」のか、100%以上になるほどに突き抜けるか、のどちらかってことになりますね。
Tさんが、「祈り」が機械的になっていることに気づかれて、「祈る」中身を変えられたのは、素晴らしい気づきでしたね。
「世界が愛で溢れますように」は、あなたも、私も、シャドウも、みんなひっくるめて愛される世界ですものね。そこには犠牲が入り込むスキもなさそう、です。
今日、たまたまですが、私も「祈り」について考えていたことを書いてブログにUPしました。
ちょっと理屈っぽいですけれど、よろしければご覧ください。Tさんのおっしゃっていることと同じだと思います。
https://hiromimizugaki.com/archives/7582
私のこともたくさん祈ってくださってありがとうございます。
そのおかげもあって、今、こうして好きなことをしながら生きていられるのだと思います。
皆さま、本当にありがとうございます。
私はマスターキーを持っていて、どんな扉も開けることができるのだけど、その前に、自分の心の扉を開けなさいと言われました。確かにそうかも!と納得しました。
私はマスターキーを持ってる、ってことは、いつでも開けられるってことだから、まぁ、それを自分に対する自信とか信頼とかにしておけば、Don’t Disturbの札がかかってる扉はそっとしておく余裕ができるかなと。とは言え、懲りずに新聞は配りますけどねー。
笑笑。
"待つ"という"思いやり"を学んでる最中でございます。
過去の私の頑張りが、今の私を幸せにしてくれたから、今、私が頑張れば、ちょっと先の私が喜んでくれると思うのですよ。
それに、この経験が、私のこれからのお役目を支えてくれそうだったから。Mindでもなく、Heartでもなく、Soulと繋がってみました。
いつもありがとうございます!
(Eさま)
「マスターキーを持っている」って、どれだけハートフルなのでしょう!
「信頼」して「待つ」のって、胆力がいりますよね。でも、確実に、ハートのキャパは広がります!
そして、「待つ」ことを選んだのは、soulだったのですね。
そう、本当に「決める」のは、soulなんですよね。
そこにリクツなんかありませんもの。
Eさんの、パワフルで明るい覚悟が感じられます。
応援しています。
〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜
皆様が、「気分いい!」と思えるのはどんなときですか?
皆様は、ご自分の気分を変えるためにやっていることはありますか?どんなとき、状況で、あなたは「幸せ」を感じますか?
もし、このメルマガの場で、分かち合ってもいいと思われるようでしたら、下の【お問い合わせ】フォームを使って、お聞かせくださいませ。
今日のHappyになる心の法則は、
【共感より大切にしたい慈悲の心。思いやりが心の架け橋を作る】
でした。
皆様とのご縁に感謝します。
「自分を知り、自分を好きになれれば、人生はもっと楽しい♪」
love and abundance,
みずがきひろみ
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