浜田義之
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あなたの真実へと導く
シークレットメルマガ

【017】悟ったときに悟った者はいない

2019/10/ 4配信


こんにちは、マスターこと浜田義之です。




悟り・目覚めの話題でよく
【わたし】というものは幻想で本当は存在しない
なんて言葉を耳にしますよね。


 



また「悟ったときには悟った者は存在しない


 


【わたし】が悟ることなどけしてできない」なんて言われたりします。


 



それでいて「本当は誰もがはじめから悟っている」なんて言葉も耳にします。


 



これ、いったいなんのことを言っているのでしょう?


聞けば聞くほどチンプンカンプンですよね。


 



今日はわたしが実際に体験した、
【わたし】は確かに存在しなかった」体験談を通して、
目覚めるとはどういうことなのか?ということについてお話しますね。


 


 


───────────────────────────


【悟ったとき、悟った者は存在しない】


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著書「"わたし"が目覚める」の中で詳しく書いていますが、
わたしは6年前、脳梗塞になりました。


 


これがまぁ本当に「出来すぎた話」で、
ちょうどこのときわたしは、脳科学者ジル・ボルト・テイラーさんの著書
奇跡の脳」を読んでいる最中でした。


 



 


「奇跡の脳」とは著者で脳科学者のジルさんが、
脳内出血をしたことで「悟り体験」をした、実体験を綴った本です。


 


さて、わたしはその日、朝起きて仕事を始めようと思いました。


 


そうしてベッドから起き上がろうとしたときのことです。


 


突然わたしはバランスを崩し、ベッドの上に転がりました。


 


 


それは異様な感覚でした。


 


 


身体の左半分が、まるで無重力のような状態で、
バランスが取れなかったのです。


 


ジルさんの本を読んでいたわたしは、
直感的に「脳かもしれない」と思いました。


 


ところがマインド(思考)というものは、
現実を受け入れたくありません


 


「いや、気のせいだ」とか「寝不足なだけだ」とか
「昨日のお酒が残っているんだ」なんて言い聞かせようとして、
現実から逃避しようとします


 


わたしもマインドの現実逃避のささやきに、
「そうさ、しばらくしたら大丈夫だ」なんて思おうとしました。


 


ですがわたしはすぐに、
ジルさんがリハビリに8年もかかった話を思い出しました。


 


 


「手遅れになったら大変だ


 


 


そう思ったわたしは、家族に頼んで病院へと連れて行ってもらいました。


 


病院に向かうクルマの中で、
わたしはどんどん気力が失われていくのを感じました。


 


「生命力が失われていく」感じで、
どんどん気力が、エネルギーが枯渇していくのを感じました。


 


そうして意識を保ち続けるのが、大変な状態になっていました。


 


それでも「病院に着くまでは」とわたしは、
なんとか意識を保ち続けました。


 


ようやく病院に着くと、わたしは車椅子に座らされ、
受付の前で先生が来るのを待つことになりました。


 


病院にはなんとか辿り着けました。


 


 


ここまで来れば、後はもう先生に任せてゆだねるだけです。


わたしが「やらなければならないこと」は終わりました。


 


わたしはほとんど意識が失われそうになる中、安堵しました。


 


 


次の瞬間です。


 


 


わたしに素晴らしい??妙案が浮かびました。


 


そうだ!意識を失いかけている今、瞑想をしたら
無念無想の境地に行け、悟れるかもしれない


 


そんなとんでもないアイデアが閃いたのです。


 


ジルさんの本を読んでいたことがきっかけなのは間違いありません。


 


わたしは「今がチャンス」とばかりに、瞑想に突入しました。


 


意識を失いかけている中での瞑想です。


 


わたしは一瞬で瞑想の境地に没入しました。


 


 


そして.........................。


 


 


数秒だったのか、数十秒経ったのかわかりません。


 


突然「浜田さん!しっかりしてください!」と肩をたたかれ、
わたしは意識を取り戻しました。


 


そしてその瞬間、わたしは気づいたんです。


 


さっき、【わたしが存在していなかった】ことを。


 


瞑想に没入した直後、病院の風景を、
病院内の喧騒の音を「なにか」が観ていました。


 


ですがそのさなか、わたしはそのことにまったく気づいていませんでした


 


わたしがまったくの不在だったのです。


 


例えるなら、映画館で映画を上映しているのだけど、
観客も映画技師もいないような状態です。


 


誰もいないので、映画が上映されていることなど、
誰も知りようがありません。


 


そんな状態です。


 


あの数秒間か数十秒間、わたしはまったくの不在でした。


 


ただ時間のない永遠だけがそこにありました。


 


 


わたしが不在なわけですから、
当然わたしはその状況を認識も理解もしていません


 


わたしがいなかったことに気づいたのは
「浜田さん、しっかりしてください」と肩をたたかれ、
思考活動が再開した後でした。


 


思考が再開してから「あれ?さっき、確かに自分はいなかった」
と気づいたのです。


 


そのときわたしは気づいたのです。


 


「わたし」「自分」というものは【思考の中にしか存在しない】のだと。


 


「わたし」とは思考が作り出した幻想、妄想の産物だったのです。


 


同時にわたしは「死」を恐れる必要がなくなりました。


 


死んだとき「ああ!やり残したことがあったのに!」
なんて思考は存在しないことを知ったからです。


 


ただし、映画監督のウッディアレンが
「わたしは死ぬのは怖くない」
「だけど自分が死ぬ場面には立ち会いたくない」
と言ったように、死んだ後のことは怖くないけど、
それまではやっぱり嫌だと思います。


 


 


さて、よく「わたしたちは誰も、はじめから悟った存在だ」なんて言いますよね。


 


だけどなんのことか、さっぱりわかりません。


 


それもそのはずです。


 


夜、夢のない眠りの中にいるとき、
わたしたちは「今、自分は夢のない眠りにいる」なんて
気づくことはできませんよね。


 


不可能なことです。


 


思考が完全停止し、わたしがいなくなったとき、
「なにか」が確かに風景を観、音を聴いていました。


 


「なにか」が確かに観ていたのです。


 


ですがそれは「わたし」ではありませんでした。


 


なぜならわたしは気を失い不在だったからです。


 


観ていたのは純粋な意でした。
それは「わたし」ではありません。


 


夢のない眠りもまったく同じです。


 


純粋な意識は永遠に気づき続けています


 


ですがそれは「わたし」ではありません。


 


ゆえに「わたし(自分)」が目覚めていることに悟ることは、
ありえないのです。


 


なぜなら「わたし」とは思考が作り出した産物でしかないのですから。


 


悟ったきに悟ったわたしはいない」、
わたしは本当は存在しない」とはこういうことなのです。


 


ですがこればかりは、どんなに想像して(考えて)理解しようとしても、
けして理解することはできません


 


だって考えが完全に止まったときに、
「わたしはいなかった」ということを、
後になって気づくことしかできないのですから。


 


さて、このような一瞥(いちべつ)体験はある日不意に起こることがあります。


 


ですが前回のメルマガでお話しました、
一瞥と解放とはちがいます


 


人が本当に自由に、幸せになるのに、
本当に必要なのはエゴの「死と再生」を通して、
エゴが破壊され、生まれ変わることです。


 


どんなに一瞥を経験しても、エゴ(マインドの根本的な信念体系)が
変わっていなければ、一瞥の余韻がなくなると、
それまでと何も変わりません。


 


 


それどころか「一瞥であんな素晴らしい体験をしたのに」と
苦しみが始まるか、「わたしは悟ったんだ」とエゴが肥大化し
(これを魔境といいます)ダークサイドに転がり落ちてしまいます


 


禅をはじめ、悟りの世界には必ず、
迷いへとさまよわないように、状態を見極めてくれる、
(本物の)師匠が必要不可欠といわれるのはそのためです。


 


目覚めた人には必ず、素晴らしい師との出会いがあります。


 


素晴らしい師匠にはいつの時代も、
必ず素晴らしい師匠がいたのです。


 


※確かな師と出会う縁、師を見極める目は本当に大切です。


 


わたしには背中を見せてくれる禅の老師をはじめとした、
素晴らしいメンターたちとの出会いがありました。


 


師たちとの確かな出会いがなければ、
間違いなく道を迷い、さまよい、場合によっては、
おかしなことになっていたことと思います。


 


それほどまでに悟り・目覚めの世界というのは、
シビアなものなのです。


 


わたしは悟り・目覚めの話題には
これまでずっと慎重な立場をとってきました


 


誤解を生みやすい、とてもシビアで微妙で微細な世界だからです。


 


ですが本当に神聖で美しい世界でもあります。


 


慈悲と誇り高い魂が目覚めて、
はじめてわたしは本当の目覚めだと思います。


 


釈迦は慈悲を説き、イエスは愛を説いたといいますよね。


 


慈悲が芽生え、生命の尊さと美しさに、
心=魂が震えてこそ、本当の目覚めだとわたしは思うのです。


 


願わくば、多くの人が、魂が震える体験をして欲しいと、
わたしは思います。


 



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【今日のポイント】


・「わたし」とは思考の中にしか存在しない


・純粋な意識状態のとき、「わたし」という認識が存在しない


・一瞥と解放とは違う


・本物の師と巡り合うことが何よりも大切


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